2月・3月の行事
1.2月の行事

(1)百々手祭り

 二月朔 粟島神社で行われる百々手祭りのことは、この叢書の別項で詳細を報告しているので、ここでは略す。

(2)涅槃(ねはん)

 お釈迦様が亡くなった日で、2月14・15日の両日、梵音寺で行う。
寺に於いては涅槃会を施行する。この年に死人のあった家ではお供えを作り寺へ持って行き、
家の仏壇へも供える。
子供の頃寺で地獄・極楽の絵を見て恐ろしかったものであるが、今日は子供たちは
殆ど参らなく、老人ばかりとなっている。

2.3月の行事

(1)3月3日 上巳(じょうし)の節句

 この日は雛祭りと云って女児の節句として、女児のある家では雛を飾り、白酒・貝類・
菱餅を供え、その下で女児は遊び祝うことを楽しみにしている。
この日には桃の花を飾るので桃の節句とも言っている。
雛祭りの起こりは雛遊びに由来している。
昔、男女の幼児の遊びであったところの紙で作られた人形遊びであったもので、
時期も一定したものではなかった。この紙人形の起源は古いもので、平安朝時代には
盛んに行われ、形も種々様々であったが、大体の形は立った形・即ち立雛でもともと男女の
区別はなかった。
これが盛んに玩ばれるにつれて次第に精巧となり、男女の区別をつけその着物も
相当こったものとなった。
この雛遊びが年中行事として3月3日に行われるようになったのは、足利時代の末から
江戸時代の初期にかけての事であって、特に3月3日上巳の日に雛を飾るようになったのは
平安時代より上巳の祓いと言って、この日人形(ひとがた)をもって祓いを行い、
それを水に流す事が行われたが、その人形(ひとがた)と人形(にんぎょう)とが
混同したものと思われる。
江戸時代になりこの日が五節句の一つに定まると武士・町人等各階級を通じて盛んに
行われるようになった。
盛んになるにつれて古い形の立雛から男は束帯を着、女は十二単衣を着るようになった。
即ち雲上人を摸した内裏雛の形に変わり、次いで元禄に入ると時勢の華美に伴って
雛も男女一対のみでなく、左右大臣・侍女隋臣・五人囃子・奴などを加えて飾るようになった。
又 箪笥・長持・挟箱(はさみばこ)・下駄箱・茶道具一式を型取ったものまで加え
段を作って並べるようになって、全く男児の手から離れ女児のものとなってしまい、
ついにこれを飾ることによって安産を願い、結婚は早くできることを願うようになった。
昔の雛と今の雛を比べると、昔の方が非常に大きかった。又御殿は昔はなかったが、
今は御殿は当然となっている。
昔の雛の並びを見ると向かって右が男雛、左が女雛であるが、今日はその反対に
なっているのは、両陛下の御影の影響かも知れない。

(2)3月21日
 この日は大師市で島四国八十八ヶ所を巡礼する日である。
島四国八十八ヶ所がいかにして建てられ、誰と誰の寄進によるかは又稿を改めて
詳細述べる心算であるが、江戸時代より盛んで、この日は役場も学校も休みであった。
最近では学校は2〜3時間授業を送らせたり早く切り上げたりしているが、
島外からの巡礼者も多く終日島はにぎわう。