7月の行事
月の行事

(1)七夕

 支那の古伝説に基づいて星を祭るのである。即ちこの日の夕には牽牛星と織女星とが
一年に一度天の川を越えて逢い見るという。七夕祭り、織女祭りとも言い、平安時代には
乞巧奠(きっこうでん)とも呼ばれた。
平安朝時代の朝廷の儀式は清涼殿の東庭に朱塗りの高机4脚を置き、その上に鏡、香爐その他
種々の雑器及び梨棗(りそう)・桃・種々の菓物を飾る。天皇は庭に於て二星を
御覧遊ばされた後、御宴を開かせ賜ったとの事である。股この星にささげものをしたり、
星に願い事をする事も行われた。乞巧奠とは、女の仕事を祈る意味である。
足利時代に入ると七月七日、七遊、七物等七にちなんだ遊が行われたが、それが確実に
いかなる遊びをさすかは一様に言えないが、七百種の詩歌、七調子の管絃、七十韻の連歌、
七献の御酒、七種法楽七色手向等もそのひとつである。
江戸時代になると五節句のひとつとなって、上下一般にこの日を祝う事となったが、
その行事の様式は昔と異なっている。その飾り方は桃・西瓜・菓子類を山のように一杯
白木の台に盛り、縁の端へ据えその四隅に竹を立て、それに短冊を結びつける。
翌朝これをどけ、役人が川に捨てる。民間でも盛んに行われ、家の庭に竹を立ててそれに
歌や詩を書いた五色の短冊を飾る。又七夕の宵には星占いが行われた。たらいの水を満たして
星影を見る事もある。
粟島の七夕も多町村と大同小異で数日前に短冊に字を書いておいて七月六日の朝竹を伐ってきて
一旦海水に浸して乾かしてからつるす。西瓜を供えたり、その日の夕 花火を点じたりして
遊ぶのは50年も昔とひとつも変わらない風景である。
七日の日は七回半海水浴をするのだと言って、ほとんど終日子供たちは海で泳ぐ。
又この日、「井戸ざらえ」と言って、一年に一回井戸の水を干してその中に落とされている
木片・枯葉などを取り除き、清潔な地下水を得るように心がけてものであるが、この風も
一般にすたれかけている。飲料水の清潔を保つ上からは復活しても良い行事ではなかろうか?


2)盂蘭盆

 
盆の故事来歴は略して粟島に於ける盆行事を記す。
まず七月の十日ごろには各家の墓の掃除をする。部落によっては日を定めて共同作業をする。
例えば潟・満部落は寺の東側の墓は七夕の明ける日、即ち七月八日と決めてある。
仏壇の掃除をする。盆の用品を買い出しに行く。どんなに遅くとも十三日の昼までには
準備完了する。十三日夕方一家揃って墓参りをする。花の中には盆には必ずシキミを交ぜる。
新墓(木でお堂を作っている)であれば扉を開いてお水を換え、蓮の葉に団子を載せお灯明を
あげる。墓の前の花立て(陶器製ー大正年間までは5寸以上の太さの竹材を用いていた)に花を
立て線香を立てる。石の墓には団子を供える。
蓮の葉の上に米粒を供える。その他は新墓の作法と同じ。墓参りから家に帰るときは
墓に背を向けて、「お祖父さん帰りましょう」等と生きている人に言うように言い
背負うまねをして家まで帰る。これは先祖も盆の間は家に帰って一緒に暮らすという
意味である。家の仏壇はお供え物をしてお茶を供える。これは「お茶とう」と言って
一日に7回お茶を取り換える。又「がき仏」と言って五寸四方ぐらいの板をつけたものを
庭に突き刺し。竹の節を利用して花瓶として花を立て板の上に蓮の葉を敷き団子を供える。
十四日朝・夕 墓参りをする。十五日朝は墓参りをしない。十五日夕・十六日朝 墓参りをして
盆の行事は終わる。
「盆礼」と言って一家の主人は黒い絽の羽織を着て親戚廻りをする習慣であったが最近では
あまり見受けられない。正月礼同様 略式となったのである。又「中元」と言って親類や知己・
同志の贈答も昔は非常に広範囲に行われたものであるが、最近はごく近い親戚、例えば親子・
兄弟ぐらいにとどまり、特に最近何かの世話になった人で、金を支払うのが失礼と思う人に
贈る程度になった。盆踊りは十四日・十五日の夜に行われ、昔は相当賑わったものであるが、
最近はあまり賑あわないようになった。


(3)大師市
 

 七月二十一日は三月二十一日同様、島四国八十八ヶ所を巡礼する日で、昔は春に準じて
相当多数の人が巡礼したものであるが、昭和四・五年ごろから年々減少し、最近では
巡拝するものが僅かになった。