9月・10月の行事
9月の行事

(1)お十日

 金比羅宮のお祭りで、昔から青年の獅子舞奉納をしていた。
はじめは第一・二支部だけであったが、後に第三支部も加わり全支部参加していた。
獅子舞奉納も何処でもできるわけではなく、奉納させて戴ける事は光栄であった。
又深夜のお神輿渡御神事は非常に清閑荘厳な行事であるが、このお神輿担ぎの役も
粟島の若い衆には昔から与えられていた。


2)粟島神社祭典

 ごく最近まで旧暦九月九日に行われていた。この日は五節句の一つで、重陽の節句 又は
菊の節句とも言う日である。この日は普通神棚にお花(菊)を供える。
これは普通の朔の十六日、節句の日にお松を供えるのを この日に限って菊の花を
供えるのである。あとはたいして変わりなく粟島神社に参拝する。
粟島神社の祭典は八幡神社の祭典とほぼ同じである。この日潟部落ではダンジリ
(たいていの地方では山車と言っている)を出して部落内を練り歩いた。
チョーサは昔から粟島神社では出さなかった。
これは道路が狭く十分に暴れる事ができないからである。旧暦九月九日が新暦十月十日と
同じになったり、兼務している宮司が他の神社の祭日(新暦)と重なったりして
しばしば祭日を変更するような事が起きたので(八幡神社は早過ぎても差し支え無し)
新暦十月十九日とした。


10月の行事

(1)運動会


 現粟島海員学校が県立粟島航海学校時代から新暦十一月三日を秋季運動会と定め
明治時代(天長節)大正時代(この時代は普通の日であった)昭和時代(明治節)と
運動会といえば十一月三日と 今年の運動会は何日にするかなどと考えてもみなかった。
又これに対し五月一日は航海学校の創立記念日で村立で発足しただけに島を挙げて祝福する
意味で春季運動会も日取りの事は考えてもみなかった。
この二大運動会が粟島の年中行事の重要行事で、子供のない家庭も一日運動会で 弁当持参で
観覧するのである。今もその習慣は残っているが、最近春の運動会は廃止されて何か淋しい
感じがする。
今出は十一月三日より早くするのが普通で、十月下旬・二十三?三十日くらいの間に行われる。

(2)亥の子

十月上旬の亥の日、昔この日の亥の刻(午前十時)の餅を食べると、万病を除くといい、
又猪は多産だから子孫繁栄を祝う為だという。これを亥の子祝いと称し江戸時代には
この日から火燵(こたつ)を用いた。
粟島でも亥の子だから火燵を出そうという人も老人には相当ある。
尚現在五十歳以上の人は知っているであろうが、亥の子の日には子供が藁で作った
棒状のものを持ち各家の前に来て「オカリマショー カリマショー」と黄色い声で呼ぶと 
家の中から「カシマショー」と答える。
すると子供たちは囃しのようなものをはやしたてながら例の藁でつくったもので地面を
ポンポンとたたいて景気付ける。
その一例は「ココノ旦那ハ ダンゴカ モチカ モチハモチヤガ 金モチヤ」ポンポン
(藁でたたく)「城ノ山カラ オ寺ヲミレバ オ寺淋シヤ 小僧一人」ポンポン、
「ココノ旦那ハ シラメカ ノミカ ノミハノミジャガ酒飲ミジャ」ポンポン 
最後の文句などはあまり上品ではないのでやらないのが普通。
たいてい子供は三人位から七・八人で集団をなして一通り囃すと、家から金や菓子などを
与える。一人がまとめておいて後で分配する。一夜のうちに何組もやってきて相当の
出費になるが家に子供のあるところは 又沢山の分配があるので差し引きいくらも変わらず、
大抵の家は数人の子供があるので大して損にはならなかった。
子無しの家が失責するようであったが、この習慣は乞食に似ていると言うので大正時代の末期に
小学校で大いに訓戒して禁止したので ピタリとやまってしまった。
亥の子は十月中に二回ないし三回あるので最初の亥の子は「百姓亥の子」と言い、
二回目の亥の子を「商売人(あきんど)亥の子」と呼んだ。