2.黒 竜 江 誌

「黒竜江誌」について
昭和36年8月15日(火)山陽新聞の10面に黒竜江誌の記事が載った。丁度その当時
ソ連第一副首相ニコヤン氏がソ連商品見本市の開館式に来日した記事と並べて大々的な
記事の書き方であった。その記事の大要を述べると、


 塩飽男日露修好に一役  幕府軍船に3人  記録発見往復3千キロの旅

という初号活字の見出しで

【観音寺】万延元年(1860年)2月、日本人の手で初めて咸臨丸が太平洋横断を成し遂げ、
乗組員中50人の内35人が備讃瀬戸に横たわる塩飽諸島の水夫だったとは知られているが、
その翌年の文久元年4月 幕府の命を受けた函館奉行の軍船が、ロシア領黒竜江に派遣された
記録が 塩飽の民家から発見された。しかもその軍船に塩飽の島民が乗っていたことがわかり、
一世紀前に結ばれていた日ソ修好史の貴重な資料と見られ話題になっている。
 
記録は「黒竜江誌」と表紙に記されており、塩飽諸島の一角粟島(香川県三豊郡詫間町)の
洋品雑貨商 紀豊さん方をこのほど訪れた郷土史家山田竹系(徳島県三好郡池田町)が
同家から発見した「黒竜江誌」の筆者はわからないが、和紙で39枚、74ページに
毛筆でぎっしり書かれ字数にして1万4千3百字にのぼっている。

日誌によると文久元年4月28日午前五時幕府の命を受けた函館奉行の支配調役 
水野正太夫のほか 諸術調所教授の竹田斐三郎、かかえ医師の深瀬洋春、貿易商 紅屋清兵衞、
ロシア通訳など総勢41人が亀田丸(トン数などは不明だが、日誌の推定では相当大きな
蒸気船)に乗り組み函館を出発35日かかってニコライエフに到着、同地で46日
間滞在した後、帰路は25日かかって往復3千キロの旅を終え 8月9日午前11時、
無事帰港までのもようがくわしく記録されている。

乗組員41人のうち紅屋と同じ貿易商の中塚徳大夫、士官の中村、長松の三人が塩飽水夫の
流れをくむ粟島出身となっている。
亀田丸の主要任務は航海、測量術訓練、各地の地形、貿易などの実態調査で往路は濃霧と
暗礁とのたたかいをつづけ、当時としては最新式の緯度計即猟具などの機械器具をフルに
活用して魔の間宮海峡を北上、樺太やシベリア沿岸、島地部に帰港しながら航海しており
寄港地の住民の生活の模様も細かくつづられている。また一行はニコライエフ滞在中、
あらゆる施設や住民にふれながら、日本人の目で見たままを書き留めているが、
とくに同地の鎮台府では大歓迎を受けたうえ軍事施設や要塞地帯もあからさまにみせて
もらっている。

最後に帰国の途中では、雨に悩まされていくたびか転覆の危機にさらされながら、難破して
漂流中の同胞を救助するなど、その活躍ぶりが書かれている。
この記録は水野正大夫が直接、あるいは書士に筆記させたものとみられているが、記録にある
亀山丸乗り組みの中塚徳大夫の三代目の子孫に当たる中塚卓さん(元山下汽船水夫長)は、
現在元気で粟島に住んでいる。外務省に紹介したい。