黒竜江志7
帯のような流れ サイレン峡に停泊
 バイカルは蒙古の北部にあるが、その住人はすばしこくて強く、馬上から射撃に長じていた。
乗馬の馬は小さいが、険しい地形でもよく走り、まるで神業に等しかったのでロシア兵は常に
苦しめられていた。
しかしこの事変でその地方を切り崩し、首長と騎馬の上手なもの、駿馬数頭を虜にして帝都に
送った。帝は親しく騎馬技術を試し、気に入ったのでその男を騎馬教官に任じたという。
ところで英国が砲撃した弾丸の数は約千発で、皆沢地に落ちたが、不発弾が未だに残っているの
で、時々発掘して調べると、80斤から30斤砲であることがわかった。
弾丸の鉄の厚さは違っているが、雷管に銅・木の2種類があり、その作り方について調べさせると
やはり英国製であった。
この地方は湿気が多く、生木を使って兵営を造っているが、大勢の兵士を長く駐留させると
「窒気」にふれて病気になるものが多く、病院の医長はこの治療のため、寝食の暇さえないと
いう。
また兵営には浴室がある。大きさは幅2間、長さ3間でそのすみにかまどがあり、まき火で
石を焼き、水をかけて密室を湯気で蒸す。
部屋の両側に腰掛けてしばらくすると汗の穴が開くので、海面に石けん水につけて洗い落とす。
この付近の土民は山円族だが、その性質頑固で民度が低い上、服装は筒袖に丈の短い着物を着、
頭髪を束ねて長く垂らしている。納車のことは知らず、自ら樹皮を剥いで舟を造り、魚を捕って
暮らしをしているが、貨幣が通用することも知らない。もともと数十軒ぐらいあったが、
ロシア人が来たので、住民は散り散りに立ち去ったが、その後また来てすむようになった。
この港も黒竜江への関門で、集まってくる各船舶は水先案内を求めなければ、無断で江に
入港することは許されない。
その代わり水先案内が誤って船を座礁させるようなことがあれば、汽船に命じてすぐ援助させる。
もし商戦が密かに江に入り、暗礁に触れて困っていても、あえて知らぬ顔をしている。
水先案内人はロシア皇帝の命令なので、その顧価(やといちん・案内料)を必要とするが、
外国の各港では規定料金があるが、ここで比べることはできない。
亀田丸がこの港に停泊すると、港長スレーブツは宿場伝いに馬を飛ばして、いち早く
ニコライスキに報告、ロシア汽船ステレオーク号が、鎮台の命令に答えて迎えに来た。
この船が水先案内船になるわけである。その江を下る(上る?)と、アメリカ、ドイツ船で
浅瀬で困っていた4隻の船を皆引いてニコライスクに行く。
ただベルフ号だけは動かないので捨てる。たぶん暴風のため碇を失い、この災難にあったもの
だろう。
汽船にしたがって江にはいっていったが、あらかじめ予備の碇を舳先に備え、船が間違いでも
起こすと、直ちに投下して進行を止める。
これは航路が余りにも狭いので舵を転じて難を避ける余地がないからである。
歴山港からニコライスクまでの間は、かすかに遠くにごった波間に一筋の航路が曲がりくねり、
その中をやっと舵をとれるぐらいだ。
それだからこの江を航行する万船は、車輪の間を通るように注意する。
風向きをはかって、よければ進み、悪ければ止まる。
とかく舵の上手下手にかかわらず、早く、また遅く行くということはできない。
実に天下の難所である。