粟島海洋記念館のご紹介(2)
粟島航海学校の校舎・校地は、はじめは中野寅三郎その他の人々が北前船の時代に建てた倉庫を
利用していましたが、その後新築しました。
当時としては特異な建物として讃岐風景画として錦絵にも印刷されていました。
しかし 生徒数の増加や、設備の充実を図るため、大正9年に現在の場所に移転、新築しました。
校舎は木造ながら入念な設計と、厳重な監理の基に施工し、今に大正建築の美しさを残しています。

↑教室は研修室として
 ご利用いただけます。
←シンプルで美しい講堂。
 素晴らしい残響です。

特に庭園の石畳や植木は、当時の生徒たちが自ら造り、植え込んだものです。
県立移管当時は、県立学校の設置場所としては、粟島は離島で不便な点が多いとの論も多く、
県議会で坂出市に移転が決議されましたたが、桃井百太郎校長が海員養成の環境としての
粟島の優位性を力説し、決議が取り消しとなりました。
その後昭和13年に従来の県立商船学校が統合され国立に移管されることとなりましたが、
粟島商船学校は選に漏れ、県立にとどまることとなってしまいました。
しかし、地元をはじめ県も巻き込んでの猛烈な運動が実を結び、昭和15年国立に
移管されることとなりました。
昭和20年第2次大戦の終戦に際して、連合軍詫間航空隊進駐軍によって、施設を破壊され、
ついに廃校のやむなきに至ったのです。

↑おしゃれな床下通風口
↑武道館は小ホールとしても
 ご利用いただけます。
←中庭遊歩道の敷き石は
 高見島の石で生徒が造ったものです。

粟島海員学校として再スタート
粟島海員学校
昭和21年4月、アメリカ進駐軍に校舎のみを接収されていた宮崎海員養成所が九州より移転し、
昭和22年4月に修業年限1カ年の粟島海員養成所賭して開校しました。
やがて昭和27年8月粟島海員学校と改称、昭和44年、高等科(就業2カ年)に昇格しました。
しかし日本の海運界に多くの人材を送り出した粟島海員学校も、海運不況の波と、
初級船員の外国人が採用著しくなり、志願者も減少してきました。
この結果、全国の海員学校の数校が廃校となることになり、ついに粟島海員学校も
廃校となることに決まり、昭和62年に90余年の長い歴史を閉じることとなったのです。