黒竜江志4 | |||||||||
歴山港へ 英航海図に誤り 潮に流されて 一進一退 | |||||||||
5月4日 午前7時30分 細雨 9時 晴 風 南15度 速力6、7里ばかり、朗晴 正吾測量すると 緯度が50度41分半、 定算緯度50度37分33秒、経度前と同じく船の位置から歴山港(アレキサンドルスキー)は 北西13度57分、直線里数にして50里強、夜11時匈陣第一星(北極星のことか)を測ると、 北緯50度38分12秒だった。地平が明らかでないことは別として、 この地形について経緯実験によると、外国の図は皆信用できないことがわかった。 |
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5月5日 正午の時、北北西15度の方向に、光がちらちら点滅しているのを見る。 それは歴山港口ノコローステルカップ岬の灯で波間にみえかくれしている。 時に風は止み、船の速力は12里も出ているが、潮の流れが速く、このため ダッチュ岬近くまで逆に流れる始末だった。 午後三時 船時儀は6時21分10秒6、太陽の正高度は38度59分17秒を示している。 これを計算すると東経140度32分定算に比べると10里半も西にあった。 つまり潮に従って流れ退いていたものだった。緯度は北緯51度5分四16秒、測量算定と ほぼ同じだった。晴雨儀29寸5分2厘 寒暖表60度 |
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5月6日 晴 正午まで風はゆっくりと吹いていたので、潮の流れに従って進んだりさがったりしていた。 経度は東経141度4分30秒 北緯51度13分36秒だった。 歴山港の方向は北西28度 直径里数にして14里のところ、この時、三本マストの外国船が 北方の航路に進んでいるのを見た。 午後2時、東南初度の風に乗って灯台岬前の岩石の横を通って港にはいる。 歴山港は「カストリー」又は「デカストリー」と呼ばれている。 近年、ロシアはトルコと一戦を交えた時、英仏両国はトルコを助けてシバストボルで戦った。 この時、シベリア伯爵モラヒオフは用兵を募って満州を守った。 満州はもとより漢国の所轄であるといったも、ロシアにとっては大事な要衝で唇と歯のように 無関係でおれない立場だった。漢もまた匪賊に苦しめられ、十分に治める暇もなかった。 その後、ロシアとトルコが和睦したので、漢、英の同盟は破れてしまった。 そこで漢とロシア両国の大臣が会談、再び国境問題について協議、黒竜江の支流ウスリー河に沿い、 満州の東辺地区のすべてをロシア領土とした。 この時、西暦1858年、わが国の安政五年で、ロシア皇帝の名をとって、アレキサンドル港と 名づけた。 港の南にコローステルカムプという岬がある。 岬は一面樹木に覆われて、岩壁は削ったように海中にそそり立っている。 岸壁の高さは水面から十八間その上に照海灯がある。 木造作りで広さは10畳高さは7間ぐらいで、その4間ばかりのところに部屋がある。 周囲に12面の窓ガラスが有り各窓ごとに明かりをおき、 その後ろに直径1尺余りの銀めっき盤を取り付け、灯火の光を反射させている。 またここは12斤砲(装薬7、2キロの大砲)が一基、いつでもうてるように備えている。 思うにまだ5月だが、樹かげにはまだ雪が残っているのに、野草の花が乱れ咲いている。 この中フリージヤ、桜草が目だって多い。また細い茎で黄色い花は迎春草によく似て美しい。 ロシア人に花の名前を聞くと「知らない」といい、ただ、花の汁を目に入れると、 一晩で失明するという毒草だった。 |
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