黒竜江志5
この岬は英人の測量によると、北緯56度21分、東緯140度49分30秒となっている。1855年度の英国版の航海図に、北緯51度28分、東緯141度3分と載っているのは
誤りである。アウシス岬はコローステカップ岬と向かい合い、港の北辺にあり、丸い山の帽子を
かぶっているようだ。
その中間が港口で、ここから離れている。およそ英法の5里以内に4つの小島が浮かんでいる。
島はソウド、オーステル、オブセルウヘートリー、ベサマルチッチ島と呼ばれている。
また二つの大きな伏礁がある。
その一つは港口の中央からやや南にあり、これを「オストック」といい、晴天の日に遠く眺めると
黒い形の影しか見えない。
しかし風と潮がぶつかると見えなくなる。深さは3尺から12尺だが、ロシアの書物に、この礁頭は
波間から2尺ぐらい沈んでいるというが干潮のことは書いていない。
もう一つは「ノヒッキ」と呼ばれ、オーステル島とソウド島の中間に位置し水深は5尺位である。
これを港中の二大伏礁としている。その他オーステル島の北及び各島の外辺には、越伏する幾多の
伏礁があり、出入りする船舶は、その伏礁のため随分被害を受けている。
5月7日の夕 メリケン(米国)商船が、オーステル島北辺の伏礁に乗り上げ、一晩中帆を張って
転覆するのを防ぎ、翌日の午後3時 満ち潮となりやっと災難から免れた。
またロシア汽船アメリカ号は13日の明け方 オブセル島の南を廻っている時、伏礁に乗り上げ、
火輪を逆転させ船を後退、やっと脱出した。
この伏礁のため4年間にロシア汽船イケシケ号など4隻が破損している。
こんな事から「オブセル島」の西岸において当港の破船の多いのは、もとより伏礁のせいでは
あるが、測量がまだ正確ではない事も、その原因であるといっている。
上陸  山中に兵舎の跡  小ガモを捕らえて食う
1797年から1852年に至る間、多くの技師が測量を集成した英国版、および1855年から
1857年に至るロシア版の数々の測量図は、いずれも似たりよったりで間違いもあり、
いま実地に測量すると正確なものは得られなかった。
また1858年の「支那海路実記」というのがあるというが、この本もただ岬や入江の向路を
簡単に説明しているだけである。
その他英国の各地理書においてはわずか数行の説明だけで何一つ証據にくらいするものは
なかった。
ロシア汽船ブレチニカ号船長セリワノから贈られたロシア版1857年の測量図に頼っていると
また暗礁の被害を被った。
その日は5月6日の午後3時だった。この時干潮の時間を計算すると 午前2時45分が
満潮となるので、帆を絞って潮を待っていた。
ところが港長が急いできて碇泊している各船を指揮、いろいろと世話をする。
夜半4時、船が浮かんだので早速アメリカ号に先導されて港に入る。
港長はスレープツといい、4時前に駐在、今は任期近く、カレイリスキという者が後任に
決まっているという。
カレイリスキはカラフト(唐太)島の長官で、今まで26回ばかりこの地に来ている。
港長の権限はわが国の奉行のようなものだ。官舎は岸に臨み、
帯のような水の流水は非常に清らかだ。民家7戸と畜舎2棟あり、この前に小橋を設け
旗竿を立てている。